黒河(満州国)からの逃避行物語

残留孤児にならなかったボク

これはボク自身の体験談です。

ある日、隠れ家に帰ると置き手紙をしてあり、日本へ帰るから、新京駅へ行き日本人に聞いて汽車に乗れとあった。父からは一人になったら、日本の住所を書いてある紙切れを何枚も持たされておりこの紙を日本人に見せろ、と、常々言い聞かされていた。

屋根裏にはリックサックに雨具等避難に必要な品物を入れたものを隠してあった。勿論、日本の住所を書いた紙は何枚も持っていた。

ボクはリックサックをかついで新京駅へ走った。新京駅の片隅に机が一つ協和服を着た日本人がいた。

ボクは父が書いてくれた日本の住所を書いた紙を見せた。すると直ぐ南新京へ行きなさい!と新京駅から線路伝いに南新京へ行きなさいと手を引いて教えてくれた。

線路の上を走った。そしてまた走った。止っていた貨車の最後尾の無蓋車によじ登った。

無蓋貨車の日本人輸送引き揚げ列車

最後尾の無蓋車は周りの囲いもない、車外へ落ちそうな貨車に乗せられた。

囲いもない貨車、10人程が真ん中に荷物を置き、振り落とされないように荷物を背によしかかっている人、横になっている人達だった。

子供はボク一人だった。男の人も女の人も病人のように横たわり青白い顔をしていた人もいた。

汽車は直ぐ発車した。そしてまもなく、止まった。そこは孟家屯駅だった。しかもボクの乗った最後尾の車両は、踏み切り番の家の直ぐ近くに止まった。

満人の踏み切り番は遮断機を操作していた、私は叫んだ!「アイヤー、ジャングイ、ジャングイ」気がついてほしかった!! 気がついた、満人は走ってきた。

私は日本人、日本へ行くと話したと思う。ジャングイは、「少々漫々的」と言いながら家から毛布や食べ物を持って来てくれた。なんとも心強いことだった。

夕方になるとシャオハイの仲間達も集まり色んな物等食料は十分になった。

赤い夕日の太陽が沈み、とっぷりと日が暮れてから引き揚げ列車はガッタン、ガッタンとシャオハイ達に見送られながら動き出した。

無蓋車の夜は寒かった、満人から貰った毛布は寒さを防ぐばかりではない、汽車の石炭粉塵や煙や前の車両から飛散してくる小便等を防ぐためにとても、役にたった。

汽車は途中給水のために何度も止まった、そのとき皆は一斉に下車して用をたした。

無蓋車が停車すると先を争って、排泄為をする。男も女も恥じることなく汽車が動くことを番心配しながら用をたしていた。

汽車の沿線は糞だらけ汽車の止まる所は何処も糞だらけ、その中を食べ物を売る満人が群がった。私は十分な食料があり、水は大きなヤカンに十分あった。

これも孟家屯の満人に貰ったもの。私は汽車が止まるたびに、父や母が乗っていないか探した、前の車両、前の車両へと移動したが、父母はいなかった。

そうして最後に先頭の石炭車にたどり着いた、石炭車は温かいだろうと、一晩石炭車に寝た。

朝になると顔も身体も、すすで、真っ黒になっていた。

汽車が給水のために止まった時、満人の機関士は給水所で私を裸にして洗ってくれた、服も洗ってくれた、そして、機関室で暖をとらせてもらい、衣服も乾かしてくれた、あり難かった。

三晩を過ぎてからか?汽車は砂漠のような木のあまりない、平原を走っていた、茶色い山が連なる中で汽車は止まった。

下ろされた、そして何時間も線路沿いに歩かされた、荷物は捨てた毛布も、リックサックと少しの食料とヤカンの水だけになった。

引き揚げ船

大きな葦で囲んだ収容所に着いた。遠くに海が見えた、青かった。

男の人がボクを連れてアンペラに座っている人々の間を、宮岸さんはいませんか、宮岸さんはいませんかと大きな声で私の手とつないで歩いてくれた。

間もなく父と母が見つかった、感動はどうだったか記憶にはない、その日直ぐに船に乗った。昭和21年8月15日の晩に間違いない。

LSTリバティ船(上陸用船艇)はアメリカ軍から借用したものだった。

母は昨年平成17年3月17日に93歳の生涯を閉じたが、この話は生涯語らなかった。私も語れなかった。

中国残留孤児にならなかった私は奇跡的に助かり親と合流できたのです。

私に奇跡は当時3回あった。

奇跡が起きなかった子供たちは死亡したか、孤児になり、中国人に助けられ中国人と信じて生きている人達がいることを忘れてはならない。