黒河(満州国)からの逃避行物語

父、ソ連軍の捕虜からの脱走

彷徨

25日朝、戦車、トラックの轟音が聞こえる、胸が痛い、身体、全体に泥を被ってる、そっと頭を動かし、頭を振ると、明るい日差しが目に刺さった。

父は俺はどうなってるんだ、首を回して上を見ると穴の中らしい、体の泥をどかそうにも重たい、まず手を動かして少しづつ泥を身体から落とした、深さは1メートル程かな、草が茂っており空は良く見えない。

外は轟音が続いてる、見つかるとやばい、顔は出せない。

そっと外を見ると戦車、装甲車、砲車等が切れ目無く動いてる。

今ここからは出られない、腰から下はウンコで気持ち悪い、水筒は腰にある、水は美味しかったが、すぐに、便意を感じた、クレオソートをポケットから取り出し水で飲んだ。

いつの間にか眠ってしまった。目が覚めると大きな真っ赤な太陽が沈んで、あたり一面が赤く燃えていた。

晴れた夜h北極星を背に南へ向かって日本へ一歩でも近づくために歩いた。北斗七星は動くが北極星は動かない。

しばらくすると、空は星空、北極星と北斗七星を探し出した。

外も静かだ、立ち上がり、此の穴は何だろう、たぶん、満人のお墓だろうと考えて少し掘ってみたが骨らしきものは見当たらなかった。

穴から抜け出し身体を洗うための水を探した、身体はウンコを泥だらけで匂いもしていた。昨夜の湿地帯の川筋を探し出し、まず、身体を洗い、ズボンを洗い、キャハンシタを洗ったが夏とはいえ寒くて、ズボンは濡れたままだが、また、身に着けた。

道路には時々ヘッドライトが見えた、道路は避けて北極星を背に山の林の中を歩いた、潅木や草を避けながら、常に北極星を背に心がけた。

南へ歩くのだ、南へさえ行けば日本へ着ける。

夜の林は空だけが星明りで、足元は全く見えない。平地へ出れば湿地に足を取られて、なお歩けなくなる。でも北極星を背に林や草を掻き分けて進んだ。お腹もクレオソートのおかげか、治り無性に腹がすいた。

でも食べ物は全く無い、もうふらふらだ。意識もうろうとしながら、北極星を背にして歩いた。小高い場所から平地を眺めたが明かり一つもない。全くの無人の原野なのかなと思いつつも歩いた。

26日、夜が明けてきた人に見つからないように深い潅木や林の中に入って行った。

食べ物が見つかった。

名は知らないがドングリのような形をした実、背丈ほどの潅木に実をつけている。その実が食べられると知ったのは、清介が満人の子供から貰ったと言って食べているのを、お腹を壊すからと叱りつけたことがあり、食べられることを知った。

日本では両方ともどんぐりと云うが中国では右が「栗子」で左が「真実」と違う名前で呼ばれています。父は真実を食べたのです。

清介のおかげだった。実の柔らかい若い実はそれなりに食べられた。本当は焼いて食べるものだが、焼くことも出来ない状況だからしかたがなかった。ドングリを生で食べているようだった。この地では「真実」と言う食べ物だった。

疲れたのか眠たくなり、暖かくもなり、水が流れてる小さな川を見つけて、裸になって身体を洗った。まだ匂いも残っている、軍服の上下も下着も全部洗った。

干す場所なんかどうでもよい誰にも見つからないように小高い場所の潅木林の深い所に草を敷いて寝た、ぐっすりと寝た。

夕方目が覚めた、遠くを見ても人の気配や家もなく、平地へ降りたが背丈以上の草ばかり、これなら歩きやすいと思い歩いたが方向が全く分からない、南の方角がどっちなのか、其の内に夜になり北斗七星がわかり北極星もわかった。

これを背にして、草を掻き分けて歩いた、鉄道線路に出た、北黒線の孫呉~北安間のどの付近かは分からない。

南の方角もわかり、南へ行けば孫呉を通り北安へ行ける、線路を歩いた、空が曇り星は見えないが、線路で南は分かった、人の気配に気をつけて、走るように歩いた。遠くに人家の明かりが見えてきた。

高粱畑が続いていた。線路を歩くのはもう危ない、平地も危ない。 山の方へ歩きだしたら、戦場の跡らしく、塹壕や蛸壷があった。

何か食べ物は無いか探したが、全く無かった。死体が3つあったが皆裸で丸く膨らんでいた。腐りだしたのだろう。たぶん日本人だと思う、衣服は着ていない、近くの満人に剥ぎ取られたのだろう。

孫呉の町と思われる場所は迂回することにした、人に見られる、ましてや、軍服。また捕虜になったらなにをかいわんや・・・。

街を迂回しながら歩くと戦場の跡に、何箇所も遭遇した、しかし、食べるものは全くなし、たまに、衣服を剥ぎ取られた死体が転がっていただけ。ロシア人らしき死体もあった。

ソ連軍は勝ち戦でも戦場清掃はしないのかな。塹壕らしき跡には機銃や武器の破壊されたものもあった。

孫呉の南の遜比拉川(ソンピラガワ)が星明りに光って見えた。鉄橋で川を渡るのはあまりにも冒険だと、やめた。 近くににソ連兵らしき姿も見えた。

遜比拉川に添って出来るだけ山の中を歩いた。 戦いの跡地で潅木や草が沢山なぎ倒されている場所は人が現れる危険性が高いと、感じたし、山の中でもまだ時々散発的に銃声があり敗残兵の掃蕩をしている様子だった。

27日、朝になり、人に見つからないように潅木の中に寝た。腹が減って眠れない、平地へ出て野菜がないか、人家の近くまで近かづいたが、畑には作物が無い、とうもろこしも収穫したあと、まだ実のない、枯れたのが一つあっただけ、山へ登り水と一緒に、トウモロコシを食べた。

                                   少しは腹の足しになったかな。夕方目が覚めた、遜比拉川を暗い夜のうちに、渡る場所を、遠くから探したが、対岸に家屋が無いところを目印にして歩き続けた。

遜比拉川を渡るには、川幅の狭い深い場所を渡るか、川幅の広い浅い場所を渡るか迷ったが、一番見つかりにくい、深く狭い場所を板きれを集めて泳いで渡った。

ここは小興安嶺のすそ野で丘陵地の森林。北極星を背にして樹木の枝が長く伸びている方が南であり、枝の指さす方を目指して歩いた。

小川伝いに歩くと必ず人間が休息した、焚き火の跡があった。 軍隊か、敗残兵か、オロチョン族かが判った、オロチョン族の焚き火の周りには必ず動物の骨の食べ終わったのがあり、その骨をまさぐり,かじると肉筋が残っており、塩分も多少あり旨かった。

湿地帯で遊ぶときは流れている水のある湿地で、水に落ちてもそんなに深くなく水からあがれる。海坊主の上へは乗らないこと、滑ると大変だ。

足場が良くなったと思うと、必ず湿地帯に出くわす。湿地帯の海坊主に乗って滑り底なし沼に落ちたら大変、まして夜、濡れると身体が衰弱する。

流れのない湿地帯は底なし沼で、生き物にとって全く飲めない水が溜まっている湿地もあり、湿地帯は危険地帯であり近寄らない方が良いのだが、水を求めをない動物はいなくはなはだ危険だ。

満人には“きき水人”もいる。きき水が出来る満人と行動を共にすれば安心です。また水が流れている湿地帯は水の深かさは腰くらいまでで水も飲めて動物には安心の水がある湿地です。

オロチョン族、大興安嶺・小興安嶺に住んでいる狩猟民族。当時日本軍はオロチョンを上手く、てなずけられなくロシア人の方が上手だったらしい。ソ連軍侵攻時日本側にとっては痛手だったらしい。北海道のオロチョン族とはまったく違うらしい。

孫呉陣地の先遣隊が戦った戦場を通過したらしく、戦痕が生々らしく残っており、思い出すと、げろが出そうになる。平時には考えられない地獄図である

鉄道を見つけた、丘陵地帯の両側を削って線路を敷いてあるため、線路伝いに歩くと両側が壁で逃げる所が無く、短い両壁の区間であれば、その間を早足で歩いたが、長い両壁が続いてる区間は、その上を尾根伝いに歩いた。

丘陵地帯の両側を削った場所は戦闘の痕が沢山あった。

尾根を少し下がった箇所で、広い踏み荒らされた場所があり、そっと星明りを頼りに目を見張ると、砲弾の炸裂した跡があり、戦車のキャピラの跡も、そして異臭が強く、人間の死体が10体以上も確認できた。

ロシア人らしき白人の死体も3体あったが、ほとんどが日本軍らしく、死体は膨らんでいたが、外傷を受けた死体からは、蛆虫が這い回っていた。

死体の被服が剥ぎ取られていない死体のポケットを探して少しばかりのお金を頂戴したのと、血だらけの背嚢からカンパンと羊羹を見つけた、形は崩れていたが旨かった。ここは監視所だったようだ。

近くの土の階段を下りるとトロッコが転がっていた。

人力トロッコは足踏みであり、足踏み脱穀機の形態であり、操作は簡単だが、登り坂は困難。

鉄棒でテコを使いながらトロッコを簡単に線路に載せることが出来た。此処は高い場所トロッコを押し乗ると、動いた、坂道を転がるように線路の音を響かせながら。快適だ、でも誰かに見つからないかビクビク心配した。

トロッコを足で漕ぎながら2里ぐらいは乗ったかな、登り坂になって体力がなくなりやめた。楽しいような早いような一時だった。

28日、夜が明けてきた、寝る場所を探し、熊の穴らしき穴に寝た。雨降りの音で目が覚めた、外は少し暗く雨が降っていた、つぶれた羊羹を少しだけ口に入れて、歩き始めた。

草原に出た、北安まではもう100キロ程だろう。線路に出てあたりを見回したが人家もなく、背丈1メートル以上もある草原だ、汽車が来れば草原に入り込めばまずは見つからないだろうと考え、線路の横を一生懸命に早足で歩いた。でも腹にものが無くふらふらになって歩いていた。

29日、明るくなってきた、草むらの場所を探して、絶対に見つからないように、身を隠して眠りに付いた。

昼頃起きて、線路の横を歩き出したら、鉄橋が見えてきて、ソ連兵も、車両も見える、これは駄目だと線路から遠く離れたが草むらは歩けるものではない、湿地帯も沢山あり、迂回しながら歩くと、昼間は方向がわからない。

線路のほうへ近かづいた、川は大きい、きっと、訥謨?河(ノモール)だ、川の水は濁り流れは速い、川の下流へ草や湿地をやっとの思いで通り、川岸に出た、泳いで渡る体力もない、身体を小さくして川岸を下った。

川原に駐屯していたような跡があり、焚き火の跡も幾つもあった、丸太や、板切れもあり、これを、使い川を渡ろうと決めた。

焚き火の付近に食べ物の残したものが無いか探したが魚の頭の腐ったのが数個あり食べたが骨ばかりで蛆虫もおり、クレオソートを飲んだ。暗くなるまで板切れを集めて身体を隠して寝た。

星明りに目が覚めた、板切れを持ってお腹の下に敷き、両手を使って漕げるような、姿勢にして水に入った、川の流れは速く向岸に着いた時はもうへとへとで、歩くことも出来なかった。

家族はまだ北安に滞在してるかな、ソ連兵の強姦や、強奪、満人の暴動などはないか子供達はどうしてるかな、清衛は生きているかな、等考えている内に、ずぶ濡れで寒かったが寝てしまった。

遠くに日本人住宅が見える。住宅は鉄条網で囲われており、ソ連軍の車両が

縦横無人に走り回り、敗残兵を戦車でひき殺したり、射撃の的にしていた。

地獄絵の戦場を通過して平原や耕作地が広がっている人間住居地帯にさしかかった、疲労困憊して意識もうろうと歩いていた。

1945年8月30日、太陽の光で目が覚めた、線路を遠くに意識しながら草の背丈の低い場所を選んで歩みを速めたが、身体はふらふら、人家が見えた、畑が現れた、畑は高粱畑、トウモロコシ畑もあり、実の無いものが残っていたが、少しは食べられた。腹の足しになった。

人家を迂回しながら、畑の中を行くと、遠くに北安とおぼしき、街が見えてきたので急いだ。

北安付近の畑は自動車や戦車が縦横無尽に走り回り荒らされており、死体もあちこちに散見され、戦車やジープが走り廻って敗残兵を追い回していて、近寄れない、市街地近くには鉄条網が見える。

これでは、北安の街には入れない。畑近くには家屋が点在しているが、そこを避けながら、北安の街の外側を廻ろうと、歩き出したが、もう足が動かない。

これで行き倒れになって餓死するのか、野良犬か狼に生きたまま食われてしまうかだ。

畑の中に二つ家屋が見え小屋も見えた人気があった、そっと近づいた、家の中から50歳くらいの女が出てきた。

「好、我は朝鮮人、日本軍に居たが、こんな軍服を着ておりすぐソ連軍に捕まってしまう」「日本軍から逃げてきたが日本軍人の服を着ているのでソ連軍の捕虜になる。たのむ。」どんな服でも良いから中国服がほしい、お金はこれだけしかない、これと、この軍服だけ。

そこへ主人が帰ってきた、女が説明した、父も必死に説明し頼んだそうだ。

主人は膝下まである、長い中国服を差し出した、ボロボロだった、 下着も頼んだ、煮しめた様な紐付きのステテコのようだ、上は甚平の様な下着、靴は、布で作ったキャハンのよう、これで完全に中国人。

公務外出の時、時々便衣を着たが全く同じデザインだった。食べ物をねだった、鍋の底に焦げた高粱が少々あり、水を入れてお粥にしてくれた。それと、白菜を大きなお皿に四つ切りにしてくれた。

塩をかけて食べた。旨かった、本当に旨かった。中国人の主人は歩いて道路を通ると危ないから、汽車で行けと教えてくれた。日本人の男は皆捕まって銃殺にされるか、ソ連行きになっている事も教えてくれた。

近くに列車駅(二竜山駅)があるから、そこから貨車でもどんな、車両でもいいから乗ること。多分お金は取らないだろう、もしくれと言われたら1円か5円を渡せばいいと教えてくれた。

彼は妻に白菜を3個持ってこさせて網のような袋に入れて私に持って行けと手渡し「友達の家へ行くような振りをして堂々と北安駅から街に出なさい。そうして奥さんを探しなさい、早く行きなさい、怪しまれないように」感謝のお礼を言い。駅へ向かった。

満人にもらった服を着て貰った白菜を背負って堂々と人ごみの中を歩いた。

二竜山駅の改札は黙って通り、止まっていた、空の貨車に足を投げ出し座った、他には人は居なかった。しばらくすると動き出した、30分程で北安駅のホームに止まった。自然に降りて改札へ向かった。

10人ほどが通り抜けて街へ出た。安心したのか座り込むようになった。近くのお菓子を売っている店の男に中国語で日本人が避難している所を知らないかと尋ねると、1キロ程歩いた所に日本人の官舎があり沢山日本人が住んでいる又避難してきた日本人も居ると教えてくれた。

官舎の周りには鉄条網が張り巡らされていたが、守衛らしき番人もいなく、ただ物売りの人達がたむろしているだけで、中へは何の抵抗も質問もなくは入れた。 後ろを振り向かないで、大きな官舎が見える方向を目指して歩いた。

少し立派な官舎を通り過ぎると、後ろから宮岸さん、宮岸さん・・でないの、と女の人の声がした。

振り向くと、正岡警務庁官の奥さんでした。父の手を掴んで家の中へ押し込んだ、お茶をご馳走になり、今までの概略を話したところ大変ねぎらってくれて、お金を500円と協和服を呉れて宮岸の家族が居る官舎まで送ってくれ別れた。

御免くださいと四軒長屋の官舎の一戸に声をかけると中から妻が顔を出した、しばらく、じっと見つめており涙をポロポロとこぼして、お帰りなさい、上がって、が挨拶だった。

安堵の気持ちがこみ上げてきた、すぐ、風呂に入り、白米のご飯を頂きながら子供達を代わる代わる抱きしめた、清衛が生きていた不思議だ。

孫呉の駅で朝鮮人の医者に診察して貰った時にはもう死ぬと言われたのに元気だった。これから家族と一緒に逃避行が始まった。

父、宮岸清太郎明治44年4月14日生まれ金沢市出身26歳の時、便衣姿。場所 古北口(北京の北)
父、宮岸清太郎明治44年4月14日生まれ金沢市出身26歳の時、便衣姿。場所 古北口(北京の北)