黒河(満州国)からの逃避行物語

父発疹チフスに

食べる為の現金収入は旧日本軍の官舎に入り込み床板を剥がして燃料として売り歩く泥棒商売が現金収入でした。

冬になると、シラミと夫の発疹チフスの頃を思い出します。それは昭和21年1月中頃、新京でのことでした。

朝起きると夫が顔を真っ赤にして唸っていました。熱がある、熱があると叫びながら、頭を冷やしてくれ、寒い、寒い、石炭をもっと、どんどんストーブに入れろと、清衛に怒鳴っていました。小沢さんたちにも静かに歩けと怒鳴っていました。

夫は医者を呼んで来いと叫び、怒鳴りまくっていたので皆怖くなり、外へ出ました。私は清衛に夫の近くに居るように言いつけ、小沢さんたちには危険だから早く商売に出て行ってと言い、私は日本人の医者を探し、歩き廻り、或る病院に入りましたが、廊下にも玄関にもあふれる患者とうめき声で、とても往診を頼むどころでなく、とにかく、近くの看護婦さんに、夫の病状を訴えたところ、「即座に発疹チフス」だと答えてくれました。そしてこの病院には薬はない、おそらく何処の病院へ行っても無いでしよう、ヤミならあるかもしれませんと暗に、ヤミの注射があるかのようなふりをして、100円以上もするのではないかとのお話でした、でもお金がありませんと答えると、頭を十分に冷やしなさい、2週間程高熱が続くでしょう、それから、うわ言や怒鳴ったりしますからと家族の皆さんが患者からの暴力や物を投げつけられるから怪我をしないように注意をしなさいと忠告をしてもらいました。

家へ帰ると夫は医者はどうした、と、怒鳴りちらし、お前が身体を売ってでも金を作れと怒鳴り又、今までの気に食わない私の事柄を大声でまくしたてて、これが夫の本性なのかと情けなくなり死んでしまいたくなり絶望的な毎日の看護でした。このまま家出をしてお金持ちの中国人に身体を売ろうかとも思い、小沢さんにも相談しました、小沢さんは別の病院へ行って発疹チフスに効果がある薬はありませんのお話を聞いてきてくれました、もう少し沢山のお金を使えば注射を沢山し、早く熱が下がり治る可能性は少しあり病状がかるくなるとのことでした。

しかし、ロスケにだけは身体を売ろうとは考えませんでした、ロスケの身体は大きく動物のように臭く、あそこも大きく、強姦された人たちのお話によると、あそこが裂けて病気になったりそして性病になった人も沢山いると聞いていました。

満洲からの引揚者情報によりますと、ソ連兵に強姦されて、妊娠した人たちが日本の博多や舞鶴に上陸して直ぐ、堕胎した人たちが600人以上もいたそうです。又女性たちには性病検査をするようにと沢山の張り紙がありました。

ある日夫の暴力で小沢さんの商品、栗饅頭、50個入りぐらいの箱をひっくり返して皆に投げつけ、足で踏み潰してしまい小沢さんに大変な迷惑をかけました。又形ある食べ物の様な物を食べたり気狂いのようで全く手がつけられませんでした。

でもあの看護婦さんが言ったように2週間ぐらいで熱は治まり気狂いじみた行動は治まり、平常になりましたが、身体は衰弱してよちよち歩きでした。しかし、夫は暴力等をふるい、暴れたことは全く覚えていないそうでした、でも私達に対しての暴力的行動は心の奥の本心でしょうと、時々聞いてみましたが、全く覚えがないの一点張りでした。

夫は発疹チフスが治ってからも時々夜は何かに脅えて、大きな声を出したり、うわ言を言ったり、夢遊病になっていました。日本へ帰っても時々ありました。

※発疹チフスとは?

当時満洲ではシラミが万延して、 沢山の日本人避難民を苦しめ、 夫もソ連から脱走して日本へ帰ってからも 死ぬまで発疹チフスの後遺症に苦しめられていました。
当時満洲ではシラミが万延して、 沢山の日本人避難民を苦しめ、 夫もソ連から脱走して日本へ帰ってからも 死ぬまで発疹チフスの後遺症に苦しめられていました。

シラミの有毒素の糞が空気伝染を起こしますが謎も。病状は、前症状なく、頭痛、背部と下肢の筋肉痛、脱力感、手足の疼痛、悪寒を伴う突然の発熱で発症します。発熱は39~41℃まで急に上昇します。発疹が2~5日に淡紅色に顔面、手足底を除く全身に広がり時間の経過を経て暗紫色の点状出血斑となります。重症の半数に精神神経症状が出ます。発熱後第5病日頃からうわごとを発し、興奮発揚し、幻覚、錯覚に悩み、終わりには狂騒状態に至ることもあります。意識は第2週目頃から混濁し始め、鈍麻から昏迷までさまざまな程度となりますが重症では昏睡状態に陥ることもあります。 初感染後潜伏感染し、数年後に再発することがあります。過度のストレスによる免疫低下あるいは低栄養状態が再発の原因とされ、新たな感染源にもなります。

父が発疹チフスに犯され、避難生活最大の苦しみを味わいました。母は3月17日93年の生涯を閉じました。