黒河(満州国)からの逃避行物語

集団避難生活から離れ露天商人に

学校での集団生活は伝染病が移りやすく万延しやすい、また、父は特殊な警察官であったため、勝者のソ連軍等から常に手配されており、同胞からの密告にも恐れて身の安全をも考えて、隠家を探していました。

 

避難先では私達家族が懇意にしていた、特務機関員であり、満州国委任官である、小沢小善治さんの奥さんと娘の(7歳)静子ちゃんも危険にさらされていました。

父が探してきた隠れ家は新京の電車会社の日本人社宅の2階の一軒でした。

日本人のほとんどは開戦時に、避難しており、30軒ほどの官舎には5家族ぐらいしか住んで居ないようでした。

 

満人も3家族ぐらいは住んでいましたが、あとは、空家でした。ただ、空家は略奪にあったのか、とても破壊されていました。

私達親子4人と小沢さん親子2人が共同生活を始めたのは南新京と孟家屯駅の中間くらいから、1KM程南湖寄りのこの隠れ家でした。

近くには映画俳優、小暮実千代さんの住宅があることを知りましたし、道路で合ったこともありました。

 

そのころには、集団生活の学校にはもうソ連軍のパンの配給はありませんでしたし、学校は伝染病が 蔓延していたそうです。

小沢さんとの共同生活といっても、食事を一緒に作って食べることでもなく、別々に食べていました。

だから、今日は食事にあり付けたのかもお互いにわかりませんでした。

母はその日の糧を求めて、物売りを始めました。新京大同大街の街頭にみかん箱を並べて、大福もち等2~3種類の餅菓子を売りました、買い手は日本人が多かったが、満人も色の付いた餅菓子をよく買っていました。

開拓団の人と思われる人々はお金が無く、お腹が空いているのに買えないような人たちも沢山行き来していました。夫はソ連軍に見つかり日本人狩が頻繁にあるため捕虜になることを恐れて、朝仕入れた商品の運搬と夕方のみかん箱をかたずけに来るだけで、昼間は裏道りを走り回り、情報集めや知人を探して歩いていました。

 

子供達二人は(清介、清彦)はハシカにかかり、高熱を出して寝込んでいましたが、今日の糧を稼ぐため介抱をしてあげられなく、残念でなりませんでした。布団も満足なものは無く毛布を重ねて着せ寒い部屋で二人を寝かせたままでした。

 

小沢さんも物売りを始めました、主に栗饅頭を静子ちゃんと二人で、女の子が側にいると、売れゆきも違うようでした。

ボクは売れゆきには左右されないようでした。

寒くなりボクはもっぱら、薪さがしをしていました。

空家へ入り込んで床板を剥がして、担いで帰って来ていました。