黒河(満州国)からの逃避行物語

魚屋さん

父の仕事は対ソ連の情報収集であり、むしろ国府軍(蒋介石軍)は味方だった。ソ連軍は3月頃からめっきり少なくなっており、父も身体の回復もあり外出できるようになった。

季節も暖かくなり石炭も売れなく、新しい商売を探しているところだった。

南湖の氷も溶けて魚釣りをしてる人がいた。父は満人のエビの採り方を観察し、質問もしていた。

父は鮒を捕ろうと言って、日本軍の官舎へ行き、窓の金網を沢山外して巻き取り持つて帰りエビ捕り道具を幾つか作っていた。

金沢の河北潟で「まえがけ」と言う漁法で、冬、鮒や鯉や鯰が泥の中に潜っているのを捕る漁法だったことを日本に帰ってから私は知った。 棒の先に三角網を付けて泥の中に網を食い込ませて泥ごと引っぱって来ると網の中には泥にまみれた魚が入っていた。一回引けば2・3匹は入っていた。

食べるには十分だったので、これを商売に母が売り歩いた、と言うより、屋台が並んでいる横にバケツに入れた生きた鮒を売ったのです。すぐに売り切れました。

新京(現長春)は国府軍が占領して町は活気づいていた。 南湖大橋の市街側の南湖を背に数十軒もの露店が出来、多くの貧しき人々が右往左往していた。

日用品は何でもあると思える程の種々雑多な物を売っていた。

その中に母も店を出していた。魚屋さんです。父が釣ったフナや鯉やナマズを生きたまま売っているのです。

ボクは父が釣った魚を母の売り場までつぶれた一斗缶を叩き直したバケツに生かして持って行く役目でした。魚は生きたままアルミニュームのつぶれたタライに入れて売っていた。

タライにはまな板の様な板切れをタライに載せて、死んだ魚を並べてた。 タライの中には生きている20センチ前後のフナや鯉が

入れてあり良く売れていた。

又、鯉の30cmぐらい以上のものは常に飲食店(菜飯店)から予約があり、釣る父は真剣そのものでした。

魚の配達はボクの役目であり値段の交渉もしたが騙されたことも有った、騙したこともあった。それは別の菜店の名前を言い、昨日・・・で買ってもらったよ、だからそれ以上で買ってくださいとお願いしたのです。

タライに入れた水には自転車の空気入れでチューブに空気を入れて魚が死なないように時々、空気入れを母は動かしていました。

魚は料理もしませんでした。中国人たちは死んだ魚しか売っていませんでしたし、魚をさばきもしませんでした。

生きた魚は倍の値段で母は売っていました。生きたフナのお客さんはほとんどが日本人、大きなフナや鯉は満人でした。

死んだ魚も生きた魚でも柳の木の枝に魚をエラから口に刺してぶら下げて持って帰るのです。その柳の木の枝を切ってくるのも私でした。

手の届く高さの所はみんな切り取られて、柳の木に登って枝を切り落として50cmくらいに切り揃えて母に渡した。

釣り餌はエビでした、ミミズがが一番いいのだが取れなくて父も困っていました、ミミズは大小どんな魚でも釣れました。

ミミズも時々売りに来たが高くて買わなかったと思います。

エビは20cmぐらいのフナと鯉しか釣れませんでした。餌のミミズは猛家屯の踏み切り番の家の豚小屋の周辺で取れたが大きなミミズだけでした、しかし大きなミミズには大きな鯉か鯰しか釣れませんでしたが、大きな儲けにはなったのです。

ボクは大きな三角網を父に作ってもらいエビを捕りました。帆を付けた台船に三角網を載せて背中から風を受け三角網を紐で引き寄せ岸から遠くにいるエビを

獲るのです大成功でした。

沢山の人・満人たちが教えてくれと真似をし、エビ採りよりお金になり、満人と仲良くなり有頂天でした。

エビも生きているものは直ぐに売れたが、生かしておくのには困難でした。生きた魚がよく売れるので、釣っている父は大変でした。

沢山釣ろうと思えば思うように釣れなく小さい魚ばかりだったり、注文される大きなものは少なく父も母も困っていました。

ある時満人の子供が大きな鯉を釣り、柳の木の枝にエラを通して生かしていたのを見つけて、値段は覚えていないが売ってもらい、母の店へ持って行き注文に答えたのに味をしめて、父も釣り人から魚を買い入れて売った方が商売になったと言っていました。

魚がよく釣れる産卵期となり、どんどん釣れてどんどん売れました。父はリンゴ箱で二つも生けすを作り釣った魚を生かして母の注文に応じていました。

売り残った魚は、網戸で作った生けすに入れて、夜盗まれないように重りを入れてあたりが真っ暗になってから湖の底に沈めて帰りました。

魚がよく釣れて商売繁盛になり小沢さんにも手伝ってもらいました。

小沢さんは栗饅頭の歩き売りして、コンスタントに稼いでいました。が、母がお願いをして、午前はお得意様回りをして、午後は母の魚屋の横で栗饅頭を並べながら魚屋さんも手伝ったのです。

釣り人からの魚の買い出し・注文者の菜飯店への届け等静子ちゃんも手伝ってくれました。

父の釣り場は南湖大橋の猛家屯寄りに胸ぐらいの深さの所に2m程の杭を打ち込み、その杭に座る横棒を取り付けて櫓(やぐら)釣(脚立釣り・ポール釣り等と呼ぶ)りをして、岸との間には紐を渡して、魚を入れてあるリンゴ箱のやり取りをしていました。

魚の産卵期も終わりに近づくと、釣れる魚も少なくなり、釣り人から買い取る方が多くなり、母や小沢さん達も魚を売るより注文に応える為、魚の買取に忙しそうでした。私はシャオハイ達とかっぱらいや盗みが多くなり家に帰ることも少なくなり本当の浮浪児になっていました。