黒河(満州国)からの逃避行物語

父帰る

昭和20年9月初めの昼頃です。玄関に満服のうすよごれた背の高い髭ぼうぼうの男がぬっと立っていました。

母におい、俺だよ俺だよ、俺、と!びっくりしました。

父です。母はびっくりしたのか、どうしたのか、解らず、へたへたと、その場に座りこんでしまいました。

父は孫呉の123師団でソ連軍の捕虜になり8月28日に隊列を組まされてソ連ヘ向けて出発したそうです。

そして4日目の晩、アムール川の手前で脱走して一週間かかって北安に到着したそうです、とても、やつれていました。

とりあえず食事をしてもらい、風呂へ入れました、着る服がありません、近所、隣とかけ歩き国民服を手に入れました。それは日本へ帰り着くまで着ていました。

汚い満服は風呂焚きに使いました。

父はその晩から屋根裏に寝ました。夜はソ連兵は来ないからと言っても、とってもおびえていて、はたで見ていてもかわいそうな様子でした。

屋根裏は座敷の押入れから上がるものでした。官舎は4軒長屋になっており、屋根裏では4軒全部見通せたそうです。

別の官舎であった事件ですが、ソ連兵が男狩に来たときに屋根裏に隠れた日本人が屋根裏で見つかり、もう一人遠くの屋根裏に隠れていた人も見つかりマンドリンで射殺されたそうです、ですから夫は屋根裏に障害物を沢山持ち込み屋根裏の見道しを悪くしていました。

屋根裏とて決して安全ではありませんでした。ソ連兵が入ってきて屋根裏で物音がすると、下から銃剣で突いたり、マンドリンを打ちまくるまねをして私達に男を隠していないかと脅迫したものです。

父と合流出来ましたが、父は追われる身であり、あまり家族のためにはなりませんでした。

屋根裏がソ連兵から狙われるようになってから、父は床下に隠れ始めました。

部屋の隅の畳半畳の所をまくり、浅い床下の土を掘り、人間一人が寝られる深さと広さを作っていました。

スパシーバー、ダワイ、ダワイと 男兵士並みに物を要求してきたが 日本人は少しは女の兵隊には強かった。
スパシーバー、ダワイ、ダワイと 男兵士並みに物を要求してきたが 日本人は少しは女の兵隊には強かった。

ボクは外でソ連兵が来るのを見張っていました。 弟妹達は父にまつわりつくが、追われる身の父の対応は今一つでした。 近所や近くの人たちが父の捕虜の状況等を聞きに来ていましたがソ連ヘソ連へと連行されて行く様子や、脱走途中の日本兵の死体の話が皆さんの気持ちを暗くしていました。 明るい希望のもてる話は父はしませんでした、明るい話はなかったのでしよう。 私達北安の日本人は多くはなかったのでしょう。少ない日本人では略奪や殺害されて全滅してしまうと言う噂が流れ、夜になると毎晩のように寄り合いの会議がありました。

たしか私達3家族の誰かが出ていました。

父はソ連軍からの脱走兵であり日本人からの密告が怖く人前には出せませんでした

たしか私達3家族の誰かが出ていました。

父はソ連軍からの脱走兵であり日本人からの密告が怖く人前には出せませんでした。

皆でお金を出して汽車を借り上げハルピンか新京の日本人が沢山いる都会へ行けば日本人が助けてくれると結論を出したが北安以外から疎開してきた人たちはお金を持ちませんでした。

銀行、郵便局は北安の官公庁等公に紙幣を分け与え閉鎖してしまっていたため、私達は通帳があってもお金は引き出せませんでした。北安の人たちは勤務先からお金を沢山貰っていました。

お金を持たない私達疎開者は汽車に乗せないなどの噂も流れ北安の人たちと険悪な状況になりました。

ソ連兵は毎日一度か二度程、略奪に来ました。応対はもっぱらボクでした。

清衛の時計屋です。ソ連兵が修理に持ってきた時計は必ず修理代をお金か壊れた時計済ましていました。

ボクはおもちゃ箱のようなものに入れて壊れた時計をかたずけていました。子供が応対するからソ連兵も面食らっていたようです。

こんなソ連兵もいました、部屋に入ってわめきながら、ソウセージのような大きな性器をだして、これを入れさせろと顔に持ってくるのです、なんともいえない生臭い臭いがしていました、母達が子供をを膝に抱いていなかったらどうなっていたでしょう。

こんな様子を屋根裏から覗っていた父も気の休まる時がありませんでした。

ある日北安脱出の話が又盛り上がってきました、一列車を雇い新京か奉天、大連まで日本に少しでも近い所まで行くことになり、いつでも出発出来る様に準備をしなさいと、御触れがありました。で お金は、お金のない人は連れて行かないの?とにかく準備をしなさい、と、なりました。

お金は貯金通帳と印鑑を、北安在住だったお金を持っている人に渡しお願い、お願いをして500円位用意が出来ました。

お金は着いた街で下ろして返します。と約束しましたが、結果はどの街でも負けた国の銀行、郵便局は閉鎖になっていました。通帳と印鑑はお金を借りた人に渡したままです、通帳には1200円位あったと思います、誰だったか名前も覚えておりません。

預金は北安以外から疎開してきた人たちで郵便局や銀行から引き落とせた人は少なかったようです。ソ連軍侵入と聞くや郵便局や銀行員は有り金全てを自分のものにして持ち出し逃げ出したのです。

このために、北安から南へ逃避行をした開拓団等田舎からの避難者は無一文での避難苦行食料も買えず餓死したり、残留孤児を生んだ大きな要因の一つです。

父はどうする、脱走兵でまだ30才台だから捕まって、またソ連行きになる。

一人私達の集団から離脱して単独行動をとるか、病人になって同行するかでした。

単独行動にはいつでもなれる、集団行動から機を見て脱出する準備をして同行する事になり、病人への変装が始まりました。

顔は髭を剃らずにぼうぼうにしておき、頭の毛も白髪に染めました。クリームと油に灰をスリバチで細かくして頭の毛を染め、そのクリームを顔にも塗りました。お化けの様なお年寄りになりました。

その日からはソ連兵が来ても父は隠れませんでした、布団を敷いて、枕元には洗面器に水を入れ額に手ぬぐいを乗せて寝ていました。

ソ連兵はけげんな顔をして死んだまねをして出てゆきました。しめた、これです。

今度は歩く姿をお年寄りにと、太ももに丸く直径5センチ程の傷を作り、血を沢山出して、包帯に血を浸み込ませて、いかにも大怪我に見せ、そのうえに、和服掛けの竹を脚に添わせて包帯でくくり、ビッコを引くようにしました。夫はこれでも足りず、杖まで作りましたが、にぎり手にはナイフを仕込んでいました、いざというときのためです。

着るものは、協和服でズボンの右足縫い目を太ももの傷の所まで、ほどき、怪我の汚い血の着いた包帯が見えるようにしました。膝下は安全ピンで止めておきました。

子供達の洋服集めです、冬になると大変です、零下20度は覚悟しなければ、冬になる前に日本へ帰れないかもしれないから、満人からも買いました。荷物は大きく沢山になりました。

もう9月です、朝晩はすっかり冷たくなりました。靴も冬物を履くようにしました。夫はすっかり、病人になりすまし朝から晩までよく寝ていました。

女性の男装が大変でした。男物のズボンの改造、モンペの隠しポケットの作成、胸のふくらみ、隠し、頭は坊主になりました。なんと涼しいことでしょう、その頭に灰入りクリームを塗って吹き出物が出ているようにしました。

準備が出来て2・3日目頃から満人が沢山官舎のあたりをうろつくようになりました。

ある日、父が日向ぼっこをしながら玄関口で満人と話していました、北安駅では日本人が日本へ帰るために汽車を集めている、たぶん明日には集まるでしょうとのこと、で、あんたの家にある品物を先に私に呉れないか?でも本当か嘘かわからないから今は渡せないと言ったら、嘘でないと言うので、少しずつ渡しました。